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くすりを調べる配置薬辞典
配置薬と地域のニュース 2007年10月号
福島県須賀川市11月第2土曜日 晩秋の夜。須賀川が炎える「松明あかし」長さ10m重さ3トンの大松明、四百年の時をへて今に伝える松明秘話

四百年の時をへて、今に伝える松明秘話

今から約420年前の天正17年(1589)6月、伊達政宗は、会津黒川城(若松城)主、芦名氏を滅ぼし、その余勢をかって須賀川城を攻撃しようと、ひそかに岩瀬地方西部の諸将に密使を遺わしていました。
このときの須賀川城主は二階堂盛義の後室大乗院で、気丈な女城主であり、しかも政宗の伯母でありました。
政宗が攻撃した会津黒川城主芦名氏は、大乗院の嫡子である盛隆が城主をしていたこともあって、快しとしませんでした。

政宗の計略に怒った二階堂家の家臣や領民達は、10月10日の夜に手に手に松明をともして町の東の丘に集まりました。そこで決死の覚悟で須賀川城を守ることを決議し、大乗院に進言したのでした。

釈迦堂川で合戦

鉄砲隊による戦さながらの演技

10月26日、伊達政宗は大軍を率いて、須賀川を東西に流れる釈迦堂川の北側の陣馬山に本陣を構え、釈迦堂川を挟んで合戦の火ぶたが切られたのです。
須賀川勢は圧倒的な勢力の差にも拘らず善戦し、敵味方入り乱れての壮絶な戦いとなりました。
しかし、前々から政宗に内通していた二階堂家重臣守屋筑後守は、城本丸の風上の二階堂家菩提寺・長禄寺に火を放ちました。
火はたちまち四方に飛び火し、城下町は火の海と化し、須賀川城は火炎に包まれ、家臣の大部分は城と共に悲壮な最期を遂げたのです。
文治5年から400年の長きにわたり南奥羽の勇として権勢を誇った二階堂家、須賀川城もついに落城してしまいました。

合戦の犠牲者を弔う

かがり火、映えるころ、御神火は五老山へと向かう松明あかしは、この戦で戦死した多くの人々の霊を弔うために行われるようになった行事で、日本三大火祭りの一つといわれています。

昔は旧暦の10月10日に行われていましたが、現在は新暦の11月第2土曜日に五老山で行われています。


大松明点火

日中は、町の中心部で松明太鼓子若組み演奏や、武者隊出陣式と武者行列などが行われます。
大松明・姫松明は、町の若衆がかついで披露し、五老山まで担ぎ上げ、6時30分に大松明に点火されます。

三十本もの本松明と、須賀川城を模した仕掛け松明の炎が、松明太鼓のとどろきに揺れ、壮大な戦国絵巻が繰り広げられるのです。

松明あかし会場案内図 東北自動車道須賀川I.C…4km、国道4号…2km、JR東北本線須賀川駅…3km、※臨時駐車場あり

      

 

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