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今から約420年前の天正17年(1589)6月、伊達政宗は、会津黒川城(若松城)主、芦名氏を滅ぼし、その余勢をかって須賀川城を攻撃しようと、ひそかに岩瀬地方西部の諸将に密使を遺わしていました。 政宗の計略に怒った二階堂家の家臣や領民達は、10月10日の夜に手に手に松明をともして町の東の丘に集まりました。そこで決死の覚悟で須賀川城を守ることを決議し、大乗院に進言したのでした。 |
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![]() 10月26日、伊達政宗は大軍を率いて、須賀川を東西に流れる釈迦堂川の北側の陣馬山に本陣を構え、釈迦堂川を挟んで合戦の火ぶたが切られたのです。 須賀川勢は圧倒的な勢力の差にも拘らず善戦し、敵味方入り乱れての壮絶な戦いとなりました。 しかし、前々から政宗に内通していた二階堂家重臣守屋筑後守は、城本丸の風上の二階堂家菩提寺・長禄寺に火を放ちました。 火はたちまち四方に飛び火し、城下町は火の海と化し、須賀川城は火炎に包まれ、家臣の大部分は城と共に悲壮な最期を遂げたのです。 文治5年から400年の長きにわたり南奥羽の勇として権勢を誇った二階堂家、須賀川城もついに落城してしまいました。 |
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昔は旧暦の10月10日に行われていましたが、現在は新暦の11月第2土曜日に五老山で行われています。
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![]() 日中は、町の中心部で松明太鼓子若組み演奏や、武者隊出陣式と武者行列などが行われます。 三十本もの本松明と、須賀川城を模した仕掛け松明の炎が、松明太鼓のとどろきに揺れ、壮大な戦国絵巻が繰り広げられるのです。 |
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